哲学への冒険の旅 7

 

7 歴史の中の「時間的パラドクス」五――ハイデガー1

 

ハイデガーもまた、根源的な学に含まれている「循環」に屈し、別の道へと転進するという経過をたどっています。しかも、そうしただけでなく、そのことを後で次のように表現しています。

 

オントロギーは、基礎的部門として現存在の分析論をもつ。このことには同時に、オントロギーはそれ自身純粋にオントローギッシュには基礎づけられえない、ということが含まれる。オントロギー自身を可能にすることは、或る一つの有るものすなわちオンティッシュなものへ、つまり現存在へと差し戻されるのである。(1)

 

「循環」がどこにあるかは、この稿の読者には言うまでもないことでしょうが、「オントロギー〔存在論〕はそれ自身純粋にオントローギッシュに〔存在論的に〕には基礎〔根拠〕づけられえない」という文章のうちにあります。フッサールは「論理学はそれ自身論理学的に根拠づけられねばならない」という問題形態のうちに「循環」を見ていましたが、ハイデガーは、同じ形式の問題を存在論において見いだしているわけです。それだけでなく、フッサールは「循環」を避ける対処法――「従って」と「から」(則して)――を考案することで、現象学の方に向かって行きましたが、ハイデガーは、回避するのではなく、真正面から立ち向かって、解決できない、と言っています。その点は、実際に「循環」に直面した場面に遡ることではじめて見えてきます。その場面とは、8年前の1919年戦時緊急講義『哲学の理念と世界観問題』です。そこで私たちは、ハイデガーにおける「循環」からの移行がどういうダイナミズムのなかで遂行されたかを見ることができます。以下それを見ていくことにします。まずは「循環」にハイデガーがどう向き合ったかを示す文章から行きます。

 

究極的な根源は、その本質からして、それ自身からのみ、そしてそれ自身においてのみ概念化されうる。根本学〔根源学〕という理念がかかえる循環を、あますところなくまざまざとみつめなくてはならない。理性の狡知を用い不条理を隠し、そのことで罠から逃れ、したがって問題を最初から錯覚であると片付けてしまうというのであれば別だが、もしそうでなければ、この問題を避けて通るということはありえない。(2)

 

文中にある「根本学」は、Urwissenschaftの訳語ですが、この術語はあとでUr-wissenschaft(源-学)として用いられます。源-学は、循環を「止揚」する――「解決」するではなく――学として想定されているものであります(3)。つまり、「循環」の後でハイデガーが向かっていった学を指しています。ですが、「根本学という理念」に循環が含まれていると把握されているので、その場合の「根本学」は、内容を度外視して――論理学に関してとか存在論に関してではなく――形式的に「おのれ自身を根拠づける学」として掴まれています。私自身はそれを「根源学」と呼んでいます。実際、認識論から存在論への転換が行われるのは、この講義の中においてなので、この時点では、「循環」をはらんだ学の特定内容(ハイデガーの場合は存在論)はまだ決定されていません。ただ、形式化されているということは、すくなくとも、フッサールの「論理学」としての根源的な学からは自由になっているということではあります。こう見ると、引用文中の、「理性の狡知を用いて不条理を隠し……云々」という箇所も、循環に対するフッサールの対処の仕方を皮肉っているのではないかと受け取れます。

それに対して、ハイデガーは「循環」を「回避」するのではなく、「まざまざとみつめねばならない」と言っています。それには理由があります。それは彼が、「循環」を「哲学と哲学の方法の本質性格との発現したもの」と把握していたからです。

 

自己自身を前提する、自己自身を根拠づける、つまり自分のお下げを掴んで(通常の生の)沼から自分を引きずりだそうとする(精神のミュンヒハウゼン問題)という根本学〔根源学〕の理念につきものの循環的なあり方は、決して困難の強制でも、困難を気取って装うことでもなく、まさしく哲学と哲学の方法の本質性格とが発現したものなのである。(4)

 

引用文中にある「ミュンヒハウゼン」は『ほら吹き男爵』の主人公です。その話の中に、馬で森に入ったときに底なし沼に落ちてしまったが、自分の前髪を引き上げることで、そこから脱出したというホラ話が書かれています。80年代にアメリカで流行した「ブーツストラップ」も同趣旨です。ともに根源学の理念に含まれている循環について、おのれ自身を根拠づけるなんてことは、ミュンヒハウゼンのほら話や、ひもを持ち上げて自分を持ち上げるようなもので、そもそも不可能だ、ということです。

しかし、この循環から脱出することができないとすれば、哲学の本質への問いに、哲学は答えることはできないことになるということになります。それは、根源学、すなわちおのれ自身を根拠づける学としての哲学にとっては致命的ですが、ハイデガーはこれを受け入れます。

 

さしあたってわれわれにはこの執拗な循環性を方法的に突破する手段が何一つない。(5)

 

「突破する手段がない」ということは、逆にその手段が見いだされれば突破は可能だ、ということと受け取ることもできますが、それは後から読んでいる者の見方でしかなく、当の本人にとっては、まさに不可能性の中に落ち込んでいるわけです。第二部の冒頭の中に、ハイデガーがどういう状態にあったかを示す言葉があります

 

われわれは、哲学の生死をわかつ方法上の岐路に立っている。この岐路は、無に至るか、つまり絶対的な即物性の無に至るか、それとも別の世界へ向かう跳出がいや厳密にはおよそ世界そのものへ向かう跳出が成功するかどうかをわかつ深淵である。(6)

 

循環が哲学の本質の「発現」であるとすれば、この問いに答えることができないということは、哲学は自分が何であるかを知ることができない、ということです。それは哲学にとっては、とりわけ〈おのれ自身を根拠づける学〉として哲学にとっては、その死を意味することになります。ですから、ハイデガーは、根源学としての哲学の死に直面しているわけですが、それは同時に、それを目指す哲学者の死(存在不可能性)でもあります。つまり、ハイデガーは、根源学に含まれる循環にまっすぐ向かって行って、烈しく挫折(・・)しているのです。最初に『現象学の根本諸問題』から引用した文章の前半で語られていること――現存在の分析論には、おのれ自身を存在論的に根拠づけることができない、ということが含まれている――は、ハイデガーの体験レベルでは、根源学としての哲学に挫折するという、それこそ「実存的な」体験であったわけです。この体験自体を表現する言葉は、『存在と時間』にはありません。ただ、まったく別の文脈でありますが、第七四節「歴史性の根本体制」には、挫折とそこからの立ち直りを表わす文章があります。

本質からして自分の存在において将来的であり、その結果みずからの死に対して開かれて自由でありながら死に突きあたって砕け、みずからの事実的な〈現〉へと投げ返されることのできる存在者のみが、すなわち将来的なものとして等根源的に既在しつつ存在している存在者だけが、相続された可能性を自分自身に伝承しつつ固有の被投性を引きうけて「みずからの時代」に対して瞬視的に存在することができる。(7)

 

引用文全体を説明することはこの段階ではできませんが、下線を引いた個所を確認していただくために引いています。繰り返しますが、上の引用文は、ハイデガー自身の体験にもとづいたものではありますが、その体験を解明する議論ではありません。『存在と時間』が主題化しているのは、日常的現存在であります。日常的現存在は、存在了解をもつ存在者とされていますが、だからといって、存在了解をもつ誰もが、存在論を形成するわけではありません。しかし、存在論を形成する現存在は、『存在と時間』では取り上げられていないのです。ですから、当然、『存在と時間』という存在論の著作を制作したハイデガー自身の体験を解明しうる議論も当然含まれていないのですが、とはいえ、まったく手がかりがないというわけでもありません。上の引用文には、すくなくとも、挫折とそれによって或る在り方に投げ込まれること、そして、そこから立ち直るという一連の在り方に関しては、ハイデガー自身の体験へと遡及されうる内容を含んでいます。

試みに両者を比べてみます。まず、ハイデガーの体験における〈哲学の死〉には、『存在と時間』における〈私の死〉が対応します。この二つを直接比較しても成果は得られませんが、「死によって砕かれ、或る在り方に投げ込まれる」という点に着目することで、迂回的に「死」の共通の意味にたどり着くことができます。死に砕かれて投げ込まれる在り方は「みずからの事実的な〈現〉」と言われています。これは、自分の事実的な存在が自分に現われるということですが、その「事実的な」存在とは、どういうことかというと、それは意味のないむき出しの「存在すること」であります。以前、「哲学の生死をわかつ岐路」について述べている文章を引きましたが、そこに「絶対的な即物性の無」という言葉がありました。ここでいわれている「即物性の無」が「事実的な」存在にほかなりません。「無」とは、ここでは、存在しないということではなく、意味が無いということです。つまり、「死に突きあたって砕け」ることで、もはや何の意味もない単なる存在するというだけの自分の在り方に投げ込まれているということであります。しかも、自分がそのように存在していることが、自分自身に現前しているということです(8)

ということは、この場合、死が砕くものは何かといえば、「意味」です。死は意味を砕くのです。死によってあらゆる意味が砕かれるために、自分の存在の意味も砕かれ、砕かれて無意味化した自分の存在が自分に現前する、ということになります。「哲学の死」、それも根源学としての哲学の死は、あらゆるものに意味を与える根源的な根拠(原理)の死ですから、それは文字通り、意味を砕くものです。「私の死」の可能性が砕くのも、自分の生(存在)に与えている意味であります。たとえば、永遠の生を〈私〉が信じて生きている場合には、死は永遠の生という意味を破壊するものとなります。要するに、意味を無化するものという点において、「人間の死」も「哲学の死」も共通しているわけです。

そう考えてみると、「死に突きあたって砕け、みずからの事実的な〈現〉へと投げ返される」というのは順序が逆なのではないかと思えてきます。むしろ、何の意味もない自分の存在が自分に現前していることの方が、可能性としての死を招き寄せるのではないかと思われるからです。無意味であれば、生きていても仕方ない、ということであれば、可能性としての死を浮上させるとしてもおかしくない、というか、むしろそれが自然の流れです。みずからの無意味な事実的な存在を了解していること、それはまさに絶望していることであります。意味を与えているものが破壊されることで、絶望的な状態に投げ込まれ、死の可能性が浮上するということ、この流れが、私としては納得できるものです。

ですが、そうだとすれば、事実的な存在が自己現前する存在者(現存在)とは、何らかの形で、また何らかの強度で、絶望を体験した者ということになります。ということは、生まれつき人間は現存在であるというわけではなくなるわけです。だとすれば、自分の存在が自分に現前的であるということを、ハイデガーは、「自然の光」(9)にたとえていますが、すくなくとも、ハイデガー自身の体験のレベルからみるならば、その比喩は適切ではない、ということになります。

話は半分しか済んでいませんが、長くなったので、残りは次回にまわします。次回では、この絶望状態が、どのようにして現存在の存在論への途につながるのかを見ることにします。(2025.4.8)

 

 (注)

 (1) 『現象学の根本諸問題』(1927年夏学期)邦訳全集第24p.26

  この文章は、『存在と時間』の最終節で提示されているつぎのような二者択一の問題に対する答えになっています。

…オントロギーはオントローギッシュに根拠づけられ得るのか、それともオントロギーは根拠づけられ得ることのためにも、何らかのオンティッシュな基礎を必要とするのか、さらにまたいったいいかなる有るものが、その基礎づけという機能を引き受けねばならないのか、…。(『存在と時間』熊野純彦訳(四)第八三節p.459)

 『存在と時間』では疑問であったものが、『現象学の根本諸問題』では、はっきりとした答えになっているわけです。

 (2)  『哲学の使命について』邦訳全集第56/57巻「哲学の理念と世界観問題」第一部第一章§2,b p.22

 (3) 同上、第二部第三章§18,p.104。私自身は、形式化された一般概念としての根源的な学を「根源学」と呼ぶことにしています。ただし、これはUrwissenschaftとは別で、訳語ではありません。形式的な一般概念としてであれば、「根源学」というべきだというにすぎません。もっとも『現象学の根本問題』(1919/1920年冬学期)では、「根源学」という訳語が、Ursprüngswissenschaftに付されているので、紛らわしいのですが、それとも区別されるべきものです。要するに、「根源学」という術語は、ここでは、訳語とは一切関係ないということです。

 (4) 同上、第一部第一章§2,b.p.22

 (5) 『哲学の使命について』p.23

 (6) 同上、第二部第一章§13,p.69

 (7) 『存在と時間』熊野純彦訳、岩波文庫(2013),4-p.263

 (8)  このように、存在することにおいて、自分の存在にかかわっている存在者が術語で「現存在」と呼ばれているものです。

この存在者の存在において、その存在者自身がじぶんの存在にかかわっている。この存在にぞくする存在者として、その存在者はじぶんに固有の存在に引きわたされているのだ。存在とは、この存在にとってそのつど自身それが問題であるものである。(同上第九節1-p.223)

 (9)  同上第二八節

人間のうちなるlumen naturale〔自然の光〕という、存在的に比喩的な語り方は、この存在者がじぶんの〈現〉であるといった様式で存在している・・・・・・という、この存在者の実存論的‐存在論的な構造を指示するものにほかならない。人間という存在者が、「照明されて」いるとは、じぶん自身にそくして世界内存在として・・・明るくされていることを意味する。つまり、他の存在者によってではなく、じぶん自身が明るみである・・というしかたで明るくされているのだ。実存論的にそのように明るくされている存在者にとってだけ、手もとにあるものは光のうちで接近可能なものとなり、暗がりのなかでは隠されるのである。現存在は自分の〈現〉を本来携えており、〈現〉を欠く場合現存在は、そうした本質を有する存在者では事実的にない。そればかりか、一般にそのような本質をそなえた存在者ではないことになる。現存在とは・・・・・じぶん・・・の開示性・・・・なのである。(2-p.144f

 

絶望の中では、自分の事実的存在は暗闇に包まれたものとして開示されているはずです。むろん、それでも自分の存在が自分に開示されていることですから、その意味では「明るくされている」ということではありますが、そうした表現は、すくなくともハイデガーの体験レベル、すなわち、根源的な存在論の形成を目指すものにとっては、不適切です。彼にとっては、絶望の中にあって絶望している自分の存在が自分に開示されているということでしかないのですから。